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十、太極図の起源と演変


1、太極図の起源

太極拳は太極図と深い関係が有ります。
《周易・繋辞上》にある『易有太極』という言葉は最も古い記載です。
その意味は《周易》という本を創作する前に既に太極図が有ったという事です。しかし、太極図はどこから来ているのでしょうか?《繋辞》には『河出図、洛出書、聖人則之』と書かれています。其の意味は『黄河から図が出て、洛河から書が出た、聖人(中華民族の祖先伏羲氏)河図洛書に基づいて太極図を推演した』という…つまり、太極図は河図洛書から推算して描いたものと伝えられてきました。

だとすると、太極図はどの時代の話なのでしょうか? 大雑把に言いますとおよそ新石器時代で今から五千年も前の話だと思われます!文字起源よりも遥かに古く、従って、著名な歴史家郭沫若先生は中国の文字は太極図の起源から算起すべきと主張しました。

太極図は上古時期に発明されたと言われていましたが、しかしながら中古以後の長い歴史の中で太極図は失伝してしまいました。

太極図が再び現れたのは北宋初年以降の事でした。
そのため、中国の易学研究者達は太極図は伏羲氏によって首創され、中古時期に煙没され、有宋に復興されたと言っています。

偶然か? 必然か? 人によって考え方は異なると思いますが、
太極図は河図洛書に基づいて作られたと言われています。黄河も洛河も河南省境内の河流なので、河図洛書及び太極図は河洛文化の物象源頭にも見られます。私達が練習している太極拳も河南省と深い関係があります。
 どのような縁があるのか、と私は思います。

2、太極図の変遷

北宋初年、道士陳希夷は河図洛書や太極図を推出したのです。易研究分野で太極諸図の発明によって易研究の新しい流派も出て来たのです、所謂、図書派です。図書派は宋易を代表する流派にもなっていたのです。宋代の著名な易学研究者は殆ど図書派の学者でした。

宋代の史書によると陳希夷は太極図を穆放に伝え、穆放は穆脩に伝え、穆脩は李之才に伝え、李之才は邵擁に伝えて邵擁は太極図を集大成したと記載しました。しかし、この太極図はどんな形なのか?史書にも書いてありませんでした。
今の研究によれば、太極図は希夷が作ったものではありません。
歴史上、儒家の本の中に太極図について記載してなかったが、道教は宗教の形で太極図を継承したと見られています。陳団(希夷)は道教が至宝として『秘不外伝』の太極拳諸図を公表したという説が有力視されています。何れにしても道教と太極図とは深い関係がある事は間違いないでしょう。

現在、太極拳の分野で太極図がよく使われていますが、太極図の正しい知識は全くないと言っても過言ではありません。
双龍図、双蛇図、双鳳図、双雲図…等々、これらを太極図として考える人が多いようですが、これらの図は太極図とは言えません。太極拳を練習している人は太極図に対して、一つの間違った認識を持っています。それは陰陽魚を太極図として考えているという事ですが、これは大きな間違いです。
太極図の正式な名称は『陰陽魚白黒太極図』といい、陰陽魚を真ん中に、その周りには八卦を配布するという形です。陰陽魚だけでは太極図とは言えません。太極図の文字の裏付けはやはり《繋辞》の最初の古い言葉→→つまり、『易有太極、是生両儀、両儀生四象、四象生八卦』という論述です。

太極拳には《太極拳釈名》という古い拳譜がありまして、中国の専門家や学者の間では太極拳の伝統理論と技術実践は一致しないと見解を揃えています。太極拳なのに、何故、八卦の理論で説明したか?と殆どの人は理解出来ないのです。
実は《太極拳釈名》が純粋な太極の理論で太極拳の創編の原理を説明しています。それに対して私達は太極あるいは太極図について誤った理解をしていました。 私達は太極図に対する間違った認識を持っているので、正しい太極理論を理解出来ないだけなのです。

正しい太極図とは陰陽魚の外側には先天八卦あるいは後天八卦を配布するという形です。勿論、六十四卦の配布も可能ですが、太極拳の分野での伝統理論は八卦の配布が中心になっているのです。

希夷の太極図はどんな形なのか?これに関する史料は既に無くなったので残念ながら私達は確認する事ができません。
 今までの史料からみると、北宋の朱長文の《易経解》という本に記載した太極図は最も古いと言われています。朱長文の太極図は八卦図の環の中には上陽、下陰という形の陰陽魚白黒太極図があって、その図の中に陰陽を区別する曲線がS形の曲線を描いています。その後、南宋の張行成の《易玄》、明代の徐鑛の《古太極測》、趙ヒ謙の《六書本義》などの歴史の本の中に太極図をも記載したのですが朱長文の太極図と違って、陰陽魚を区別する曲線は逆Sの形でした。
  宋代は易学の大発展の時代なので、陳希夷の太極図諸図は宋易を代表する図書派の原点になり、宋代から明代にかけて、中古時期から失伝した太極図は再びその形を復元するようになりました。
最初、趙ヒ謙の《六書本義》に『陰陽魚図』を載せていましたが、当時、太極図とは言わずに『天地自然河図』(清代の胡シ胃は天地自然之図と改称した)と言っていました。趙ヒ謙は伏羲の時代で榮陽(河南省)のあたりの黄河には龍馬(伝説の水獸)がこの図を背負って水面上に浮かべてきたので河図と説明しました。さらに、《周易》の『河出図』の説、《尚書》の『河図は東序にある』の説は天地自然河図を指したと解釈しました。学者達はこの図を初めての太極図としと認めているようになっているのです、しかし、趙の図は南宋の張行成の図は極めて似ていているので、天地自然河図はどこから来たのか?未だに判りません。(天地自然河図、図1)


  明代の末に、趙仲全の著作《道学正宗》には『古太極図』を載せています。今までの文献の中で初めて『太極図』と称する陰陽魚の図象です。
  古太極図は天地自然河図と比べると、陰陽魚を四本の線で引いて八つ区域を均等にした事によって八卦の陰陽位数と太極魚の白黒の変化を度数で厳格に対応し、統一してきたのです。清代の胡渭は宋代の羅願が描いた陰と陽はお互いに含まれている『河図』と同じような形と評価しました。明末以来、趙仲全の古太極図の称謂について清代に入って、基本的統一され、最終的にこの古太極図を太極図と呼ぶようになりました。(古太極図、図2)

  河図も古太極図も白黒陰陽魚の部分は2つの魚の頭は相互に糾抱して、陰陽魚の曲線は反Sという形で、魚の眼は『水滴』のような形になっていて、とても興味深いと、私は思います。

  まず、陰陽魚の眼については今の陰陽魚の眼は〇と●のように丸くなっているのです、形として実際の魚の目に近づいているかもしれませんが、古太極図の陰陽魚の眼は眼だけでなく、『水滴』という形は水を表していると思います。陰陽魚は活きている魚なので水が無ければ生命力を失い、死んだ魚になってしまい、従って、魚にとっては水は絶対に不可欠なものです。現在流行している半円形の陰陽魚の丸い眼はただの『干し魚』に見えてしまい、古太極図の陰陽魚の眼は『涙眼』ともいい、ちょっと悲しいように見えますが、実は、この『涙』で陰陽魚の『感情』まで表せるのです!とても素晴らしい!!!
天地自然之図
(天地自然河図、図1)


  古太極図は非常に坎離両罫を重視しているようで、これは後漢時代の(〇)伯陽の《周易参同契》という錬丹の経書に関係あるかもしれません、《参同契》は坎離両罫を日と月とし、日と月を合わせると『易』になると考えています。坎罫は陰の中に陽があり、そして、離罫は陽の中に陰がある事を意味します。

  従って、古太極図では陰魚の陽眼が離罫とほぼ一直線上の位置にあり、陽魚の陰眼が坎罫とほぼ一直線上の位置に有ります。そして離罫の水平位置に陰魚の陽眼と陽魚の尾との間には陰魚の頭が挟まれるような形になっており、坎罫の水平位置に陽魚の陰眼と陰魚の尾の間に陽魚の頭も挟まれるような形になっているので、専門家はこのような形を『両陽挟陰』と『両陰挟一陽』と形容します。『両陽挟一陰』は『離中虚』を意味し、そして、そして、『両陰挟一陽』は『坎中満』を意味します。しかし、今の半円形太極図においては陰陽魚の魚眼は乾、坤の位置に有りますが、それは、全く理論上の根拠がなく、誤りと思われます。
  『陰陽魚』はどうであれ、それはあくまでも易学研究分野の問題とは言えるかもしれないので、太極拳においてはただ引用するだけなので直接に関係ないと思われるかもしれません。しかし、太極拳の分野で太極図を応用する時に大きな誤解がありました。
つまり、太極拳或いは武術分野に於いては陰陽魚を太極図として用いられたのです。何故、こんなミスをしたのかというとおそらく、武術分野では太極拳の他には八卦掌もありますので太極拳と八卦掌を区別するように陰陽魚と八卦図を別々にしたと思われます。この誤った考え方は太極拳の套路を作る時にも現れてしまい、とても残念に思います! 前述したように陰陽魚の外側に八卦方図或いは八卦円図及び六十四卦図を配布する事によって、陰陽魚白黒太極図といい、略して太極図と称じ、《太極拳釈名》という拳譜は八卦で太極拳を説明した訳ではありません。陰陽魚白黒太極図で拳術の原理を説明したのです。一見、太極図と太極拳はそれ程関係ないと思われますが、太極図を正しく理解出来なければ太極拳の実践にも問題が出てきます。






 三、まとめ  

1.太極図の起源は遠古時代に遡り、中華思想或いは華夏文化や文明の原点とも言えます。

2.中古時期に長い間を渡って、太極図は失伝していましたが、有宋に太極図は再び復元されました。太極図の復元と演変に於いては道教とは深く関係あると思われます。
3.太極諸図は陳(団)により、創られたと言われていますが、現在の文献の中では確認されていません。現在の資料では北宋の朱長文の著書《易経解》の中の太極図が一番古いと思われます。

4.明代初期の趙ヒ謙の自然河図が明代末の趙全中により改良されて古太極図として定着して来ました。
太極図とは真中の陰陽魚と外環の八卦図の組合せの総称を意味し、正式な名称は陰陽魚白黒太極図と言い、太極図はその略称です。

5.今、よく見られている半円形太極図は易学の立場で考えると太極の本義から離れてしまい、正しいとは言えないのです。

6.十三勢の套路中の太極図布局は上述した太極図と原理として通じるのですが、同じものではありません。太極拳のシンボルとして古太極図を使ってよいと考えられます。


四、その他の太極図について

  陰陽魚白黒太極図以外に、易学の分野に於いては主に二種類の太極図つまり、太極五層図と太極円図があります。

  1.太極五層図

北宋の理学家周敦頤は《太極図説》を書きましたが、北宋では《太極図説》はかなり批判されたようです。しかし、南宋の朱子は周敦頤の《太極図説》を理として定義し、大いに評価したのです。そのきっかけで南宋以来、周子の一図一説は中国人の考え方に大きな影響を与え、中国人の宇宙認識論の原点にもなっているのです。周子の一図とは太極五層図を指し、その一説とは周子の太極に対する論説を意味するのです。周子の一説は凡そ、250文字位と、とても短いのですが、後世への影響は計りきれないほど大きく、太極拳にも非常に大きな影響をあたえたのです。陳式太極拳は周子の《太極図説》の原理に基づいて作られ、王宗岳の有名な《太極拳論》も周子の一図一説に基づいて書かれた大作です。
周子の《太極図説》があるから太極拳の套路の中での『予備式』は『無極』と呼べるようになったので、太極拳に対する考え方はもっと幅広くなりました。しかし、陳式太極拳以外の太極拳には無極は無いはずです。何故なら他の太極拳の拳理は《周易》なのですから。
残念ながら、太極拳分野では既に区別出来なくなってしまいました。

  五層図の具体的な内容ついて
第一層図は老子の無極、
第二層図は太極で、第三層図は五行相生図
第四層図は乾男坤女
第五層図は万物を生化する事
という順序です。
  五層図の由来についてはいろいろな説がありましたが、『無極』の語源は《老子》で、『太極』の語源は《周易》ですが、少なくとも漢代から、学者たちは『無極』と『太極』を一緒に考えるようになりました。周子の五層図は偶然的なモノでなく、『道』と『易』との歴史流れの集大成とも言えるでしょう。
  河南省博愛県唐村の千載寺の建物自体は五層図を語っているような建築でした。
資料によると、千載寺は東漢時代に建てられ、原名は「無極寺」といい、北(委)太平真君年間に「太極廟」に改称し、その後の武定三年に「千載寺」に変わりました。千載寺内には太極宮という建築群があり、太極宮の中には老君殿、太極殿、薬王殿、八卦門と太室(司)(練武堂とも言う)と分かれ、この建築群は驚くほど、五層図と酷似しています。1.老君=老子、ここでは無極の意味、
2.太極殿は太極の意味、
3.薬王殿は五行の意味、
4.八卦門は八卦の事で、ここでは乾男坤女を意味し、
5.太室(司)の原意は子供の意味で此処では生化万物を意味する という流れで、五層図その物になっているとハッキリと解っているのです。従って周子の五層図も『遠有端緒』とも言えるでしょう!

周子の五層図は三教合一とも謂われていますが、つまり、道・儒・佛教が融合するのですが、千載寺は古くから洛陽の白馬寺と友好往来をしてきたのです。中国の歴史から見ますと漢代と宋代は易学が最も発達した時代でした。宋代の易学の発展は漢代の易学の考え方をたくさん取り入れるようになったと考えられます。従って、周子の五層図は歴史上に易学研究の集大成とも言えると思います。
  しかし、とても残念な事ですが、中国の文化や思想或いは古い宗教を満載していた千載寺は清代の野蛮な放火で廃墟になってしまい、1958年の大躍進時代に人民公社の社屋を造るために、その『廃墟』は再利用され、史無前例の文化大革命の時に再び壊され、寺内の何百通の石碑もダムを造るための基礎になってしまいました。千載寺の遺址も小麦畑になりました・・・
寺貌不知何処在
麦田依旧笑春風


もし、収穫の季節に唐村を訪ねたら、どんな気持ちであの黄金色の小麦畑を眺めたら良いのか?解らないです。

2.太極円図

明代には一人の著名な易学家が居ました、名前は来知徳と言います。
来子は独自の太極図を作り上げ、(円図という)、著作の《易経来注図解》に載せました。来子の円図は次の事を表しています。

  内円中の空間は太極を表し、白黒は陰陽両易を意味し、円図の上下に貫く白黒の二線は陰が極まれば陽が生じ、陽が極まれば陰が生じる事を表し、円環全体で気が生々して永遠に循環する事を表しているのです。
  太極円図は陰陽魚白黒太極図に基づいて改造してきたものとよく言われていますが、円図はそんな簡単なものではないと思います。来子の円図は周子の五層図をまとめて作り上げた太極図で、五層図に対して円図と名付けしたと考えられます、つまり、周子は太極図を五つの部分に展開して分かり易く描きましたが、来子は五層図の原理に基づいて一つの図に纏めました。
それだけでなく、更に、周子の五層図と《周易》の理論を組合せて新しい易学理論を生み出した事は、易学の進歩と発展とも言えるでしょう。 円図の特徴は『陰陽互生』以外、円図の外環には八卦或いは六十四卦を配布した事です。
  来子の円図も太極拳と深い縁があります。清末、陳家溝の老人、陳金は十二年間をかけて《陳氏太極拳図説》という中国近代史上の唯一の太極拳の巨作を完成したのです!陳金氏の著作中の太極拳は来知徳の《易経来注図解》を拳理として陳式太極拳に基づいて創編した套路で、陳家溝の老架に対して新架とも謂われる太極拳です。近年、欧州の国々で練習されていると聞いていますが、中国国内では、やっている人は殆どいません。《陳氏太極拳図説》は難しくて分かり難いとよく言われていますが、それは来子の易学の原理は解らないからです、来子の易学理論が判らないと《陳氏太極拳図説》を読めないのも事実だと思います。

  陳金の著書中の太極拳は全部で66の動作が有り、そのうち、予備式は無極とし、起勢は太極として、あとの64の動作を易学の64卦としています、つまり、無極→→太極→→64卦という来子の太極円図を拳理としているのです。太極拳の近代史上においては太極拳の原理まで解る人は陳金しかいないと私は思います。孫禄堂は晩年で太極拳の易理が解るようになったのですが、しかし、拳理を纏める時間がないままこの世から去ったのです。
  陳金の著書の中の太極拳は来子の円図と同じ、流行はしませんでした。原因は色々ですが、一番の原因は陳金の太極拳の自身にあるかと思います、つまり、64卦で太極拳を創編すると動作に対する要求が厳し過ぎて、理想論としては良いと思いますが、実際に練習する時に、体に対する要求が厳しく、なかなか要求通りに練習できないと考えられます。しかし、陳金の、太極拳を造る考え方は私達にとって大変有益・参考になる事には違いありません!来子の円図も太極拳を創編する際に重要な拳理にもなっているのです。

《太極拳の真実》

一、経過
2000年に太極拳に関する研究を再開したのがきっかけで太極拳の起源とその変遷の歴史に興味を持ちました。《太極拳の真実》はこの研究の一部分で、つまり、太極拳の起源の部分です。
  太極拳の歴史については1932年に武術の史学家・唐豪氏の、「太極拳は清代の初期頃に河南省温県陳家溝の陳王廷により作られて、今まで400年位の歴史がある」との研究はほぼ定論になっています。更に、近年来、唐豪先生の「陳王廷創拳説」は太極拳が世界に普及すると同時に世界に広がるようになりました。

  私の研究の焦点は陳王廷以前には太極拳があるかどうかという所です。結論から言いますと陳王廷の陳式太極拳の前には太極拳は既に有ったのです、その太極拳の名前は『十三勢』と言い、つまり、太極拳は十三勢→→太極拳十三勢→→太極拳というような流れで変遷してきたのです。太極拳の起源は清代の初期でなく、北宋の後期で900年位の歴史があるのです。

二、十三勢は太極拳の原点である

十三勢という套路(流れ)は少なくとも、清代の拳譜にも載っていたのですが、この套路は清代の人により作られたと思われ、重視されなかったのです。今度の研究のきっかけで、三年間をかけて、この套路を復元しました。
復元された十三勢を見て、とても驚いたのです!
即ち、十三勢は《周易》の原理で創られ、太極という言葉も《周易》からの言葉なのです。